ふと目を閉じると、車の後部座席に横になって苦しい息をしながら星空を眺めていた子供の頃をよく思い出します。子供の頃小児喘息を患っており、夜発作が出て治まらない時、車に乗せられ掛かり付けの病院に連れて行かれる、そんなひ弱な子供でした。学校はよく休むし、体育は見学することも多かったので、性格も内気で大人しく、授業で手を上げることすらできませんでした。と成人してから人に話をしても誰も信じてもらえません。が本当です。
生まれは1956年。現在も住んでいる山口県との県境にある広島県大竹市に生まれ、5歳の時に父の転勤で愛知県豊橋市に引っ越しました。父は三菱レイヨン(現:三菱ケミカル)に電気技師として勤務しており、豊橋工場を新しく立ち上げると言う事で豊橋工場に配属となり、私たち家族も引っ越した次第です。
冒頭書きましたように、そんな子供ですから当然のごとく勉強も運動もダメ。姉の成績が良かったものですから、小学校の先生からも「何で姉ちゃんがあんなにできるのに、お前は・・・」と兎角比較されては、自分の駄目さ加減を教えられるそんな小学校時代でした。
そして中学校に上がると部活を選ばなくてはならず、姉が「あんたは体が弱いから、私が入っている吹奏楽部に入りなさい!」と一方的に決められ入部。その時3年生で部長をされていた伊藤さんが「弟は、私と同じバリトン。決定!」と選択の余地もなく決められてしまいました。縁とは不思議なもので、この時の部長の伊藤さんとは、かつてジェルコの会員でもあった豊川市にある㈱イトコーの伊藤正幸会長。今でも趣味でこの楽器を楽しむことができているのは、伊藤さんのお陰と感謝する次第です。(笑)
そして中学2年生になる頃、父親から夕食の時に大事な話があると切り出され、「勤めている会社を辞めて広島に帰って兄弟で事業を始める」と告げられました。それまでは、勉強のできない自分は“豊橋で工業高校に行って、どこかの工場に勤める”と漠然と思っていましたので、まさに青天の霹靂!
時は1970年大阪万博が開催された年で、豊橋からの帰りに大阪万博で人ごみの中でアポロ12号が持ち帰った何の変哲もない”月の石”を見て帰ったことを思い出します。
地元の中学校に転校した頃には小児喘息は治まり、多分近くの工場群から出る鼻を突くような悪臭物質が体に合ったのでしょう。
父が地元に帰り起こした会社は”有限会社芸南ハウス設備”。当時流行り始めていたセントラルヒーティングを施工する設備会社で、父が設計・施工、弟が営業を担当してスタートしました。しかしながら、起業早々仕事があるはずもなく、毎日学校から帰ると父親が自宅に居ることに、子供ながら「店はだいじょうぶか?」と思ったことを思い出します。
その後、高等学校に進学し、懲りずに吹奏楽部に入部。県内でも活発に活動している学校でしたので、部活に熱を上げ、3年生になり進学を考えるころには、音楽大学に行って演奏家になりたいと思うようになっていました。その希望を父に伝えると想定通りの猛反対。その日から、一緒に起業した叔父と共に毎日のように「音楽では食えない、この会社を継げ」の説得が繰り返され、しぶしぶ諦めた次第です。
高校時代も大して勉強もせず、毎日楽器ばかり吹いていたものですから大学に受かるはずもなく浪人となり、一浪の後東京にある工業大学の経営工学科に入学。当時の家業は管工事が主な設備会社でしたので、絵の苦手な私は建築科を選ぶ選択肢は全くありませんでした。後年、リフォームを始め二級建築士を30代で取るべく勉強を始めた時には、「こんな事なら建築に入っておけばよかったと」少しばかり後悔しましたが、それも後の祭り。ただ、東京に4年間でしたが行ったことは、今でも上京すると杯を酌み交わす友ができるなど、行って良かったと思っております。